1970年代のことです。アメリカのカリフォルニア大学サンタクルーズ校で、当時、言語学の准教授であったジョン・グリンダーと、同大学の学生として最終学年に在籍していたリチャード・バンドラーは、お互いのことをよく知るとても親しい間柄でした。
カリフォルニア大学サンタクルーズ校
キャンパスの写真
(2019年8月 中島志保撮影)
バンドラーは、精神科医フリッツ・パールズが提唱していたゲシュタルト療法に強い関心をもっていました。そして、バンドラーは、自分の友人で、SCIENCE AND BEHAVIOR BOOKS, INC. という出版社のオーナーでもあったボブ・スピッツアーのために、フリッツ・パールズのセラピーを研究することを思いつき、彼の個人セッションをできるだけ大量にビデオに録画しました。このビデオテープは後に、SCIENCE AND BEHAVIOR BOOKS, INC. から出版された『治療の目撃者』という本の材料となりました。
ボブ・スピッツアーは、サンタクルーズに貸家を所有しており、それを知人にレンタルしていました。当時、文化人類学や精神医学の研究者でありカリフォルニア大学でも教授として教鞭をとっていたグレゴリー・ベイトソンもサンタクルーズに住んでいましたので、バンドラーは、いくつかの理由から、ボブ・スピッツアーの貸家のすぐ近くに引っ越してきました。
バンドラーは、毎週一回、月曜日の午後に、ゲシュタルト療法を使ったグループワークを行いました。このグループワークの参加者はカリフォルニア大学の学生が多く、その参加費は1回5ドルという安いものでした。バンドラーは、この定期的に開催したグループワークの中で、フリッツ・パールズのモデリングによるセラピーの個人セッションを行い、クライアント役になった人たちに劇的な効果をもたらせていました。
バンドラーが行っていたフリッツ・パールズのモデリングは、直感的で卓越したものでした。また、モデリングの対象となったフリッツ・パールズ自身のレベルをはるかに超えるものでした。このように、自分の意識を深い変性意識状態に置いて、モデリング対象者が達成しているのと同じ、あるいはそれ以上のレベルのパフォーマンスを無意識的に達成できるようにする方法を、ディープトランスアイデンティフィケーション(Deep Trance Identification=DTI)と呼んでいます。
バンドラーは、理論的な解釈に秀でているグリンダーに、ゲシュタルト療法がとても興味深いものであることを伝え、自分が行っているセラピーの個人セッションを観察して、理論的な分析をして欲しいと依頼しました。しかし、グリンダーは気が進まず、バンドラーの依頼を断りました。しかしその後、バンドラーからの度重なる招待の末、グリンダーはしぶしぶバンドラーが行っているグループワークの会場に足を運んでみることにしました。そこではバンドラーとフランク・ピューセリックがゲシュタルト療法のワークを行っており、創始者であるフリッツ・パールズよりもさらに短時間でセラピーの劇的な効果を出していることを目の当たりにし、グリンダーは好奇心をそそられ、そのグループワークに加わることにしました。
バンドラーは、自分が行っているゲシュタルト療法のグループワークや個人セッションを、どのようにうまく進めているのか、また、どのやり方が効果的なのか、それらのことについてまだ正確に知ることができなかったのです。実際に、ある技を持っているということと、それをどのようにうまく使っているかを明瞭に知ることとは、大きな違いがあります。
そこで、グリンダーとバンドラーは、ひとつの試みを行うという約束を交わしました。それは、まず最初に、バンドラーがゲシュタルト療法のやり方をグリンダーに教えて、次に、グリンダーが、バンドラーがどのようにゲシュタルト療法を行って高い効果を出しているのかを分析して彼にフィードバックするというものです。こうしてグリンダーは、毎週一回、月曜日の午後に、このグループに参加して、バンドラーをモデリングしました。このとき、バンドラーは、特に重要だと思われるパターンを目配せしたり声の調子を変えたりしてグリンダーに知らせるようにしました。
グリンダーは、バンドラーが行っていることを観察し、素早く学び取り、明確に分析することに成功しました。そして、グループに参加した2ヶ月後には、そこで行われていることのパターンを抽出し、バンドラーと同じように実行することができるようになりました。グリンダーはその後、毎週一回、木曜日の午後に、「奇跡の再現」というテーマで、グループワークを開催するようになりました。月曜日の午後にバンドラーが行なったゲシュタルト療法のグループワークを、木曜日の午後にグリンダーが「奇跡の再現」という名称で同じ内容のものを行うというものです。この2つのグループワークから生み出される成果は成功していきました。
このように、バンドラーが直感的に行っていたワークを、グリンダーが分析し、パターン化した結果、NLPの最初の著書『魔法の構造』が誕生しました。セラピーの魔法使いが駆使しているスキルとして、第1巻では「言語パターン」が、第2巻では「非言語パターン」が分析的に記述されています。
上記2冊の本が、日本語版として、亀田ブックサービスより出版されました。
(2冊が1冊にまとめられています)
バンドラーは、次に、家族療法の母と呼ばれるヴァージニア・サティアが、家族療法家のためにカナダで開いていた1ヵ月という長期間のトレーニングセミナーに参加し、ビデオに録画をするという仕事を得ました。バンドラーはもともとヴァージニア・サティアと会ったことがあり、非常に親しい間柄でした。バンドラーは家族療法のセミナーが行なわれているあいだ、ずっと録音室に閉じこもり、外界との繋がりはセミナー会場に設置されたマイクだけでした。彼は2つに分割したイヤフォンを持っていて、片方の耳で録音レベルを調節しながら、もう一方の耳ではよくピンク・フロイドのテープを聞いていました。
このトレーニングセミナーの最後の週に、ヴァージニア・サティアは、模擬的にカウンセリングが必要な状況を設定して、自分がこのトレーニングセミナーで教えてきた内容を使ってどのように解決するかについてセミナーの参加者に質問をしました。それに対してほとんどの参加者たちは回答することができず、当惑したようすで時間が過ぎていました。そのときバンドラーは、録音室から大急ぎで駈け下りてきて、バージニア・サティアが教えてきた内容を使って、カウンセリングの中で提示された問題を見事に解決してみせました。それに対してヴァージニア・サティアは、「まさにその通り」と言いました。バンドラーは、ヴァージニア・サティアの治療のパターンを意識して学ぼうとはしていませんでしが、参加者の誰よりもよく知っているという奇妙な状況になっていました。バンドラーはなぜ自分がそのような状況になっているのかを自分で理解することはできませんでした。そこでグリンダーは、ヴァージニア・サティアが教えていたものを、バンドラーからモデリングして、分析して見せました。バンドラーとグリンダーの観察対象者のモデリングの能率はかなりのレベルまで向上しており、ヴァージニア・サティアのモデリングは、2ヶ月ではなく3週間で仕上げてしまいました。
1976年、グリンダーとバンドラーは、ヴァージニア・サティアと共著で、『家族とともに変化』を出版しました。この著書では、セラピストが、知識をもって対応することが必要なコミュニケーションのパターンが分析され、家族療法のための基本戦略が論じられています。
カリフォルニア大学サンタクルーズ校
キャンパスの写真
(2019年8月 中島志保撮影)
バンドラーは、精神科医フリッツ・パールズが提唱していたゲシュタルト療法に強い関心をもっていました。そして、バンドラーは、自分の友人で、SCIENCE AND BEHAVIOR BOOKS, INC. という出版社のオーナーでもあったボブ・スピッツアーのために、フリッツ・パールズのセラピーを研究することを思いつき、彼の個人セッションをできるだけ大量にビデオに録画しました。このビデオテープは後に、SCIENCE AND BEHAVIOR BOOKS, INC. から出版された『治療の目撃者』という本の材料となりました。
ボブ・スピッツアーは、サンタクルーズに貸家を所有しており、それを知人にレンタルしていました。当時、文化人類学や精神医学の研究者でありカリフォルニア大学でも教授として教鞭をとっていたグレゴリー・ベイトソンもサンタクルーズに住んでいましたので、バンドラーは、いくつかの理由から、ボブ・スピッツアーの貸家のすぐ近くに引っ越してきました。
バンドラーは、毎週一回、月曜日の午後に、ゲシュタルト療法を使ったグループワークを行いました。このグループワークの参加者はカリフォルニア大学の学生が多く、その参加費は1回5ドルという安いものでした。バンドラーは、この定期的に開催したグループワークの中で、フリッツ・パールズのモデリングによるセラピーの個人セッションを行い、クライアント役になった人たちに劇的な効果をもたらせていました。
バンドラーが行っていたフリッツ・パールズのモデリングは、直感的で卓越したものでした。また、モデリングの対象となったフリッツ・パールズ自身のレベルをはるかに超えるものでした。このように、自分の意識を深い変性意識状態に置いて、モデリング対象者が達成しているのと同じ、あるいはそれ以上のレベルのパフォーマンスを無意識的に達成できるようにする方法を、ディープトランスアイデンティフィケーション(Deep Trance Identification=DTI)と呼んでいます。
バンドラーは、理論的な解釈に秀でているグリンダーに、ゲシュタルト療法がとても興味深いものであることを伝え、自分が行っているセラピーの個人セッションを観察して、理論的な分析をして欲しいと依頼しました。しかし、グリンダーは気が進まず、バンドラーの依頼を断りました。しかしその後、バンドラーからの度重なる招待の末、グリンダーはしぶしぶバンドラーが行っているグループワークの会場に足を運んでみることにしました。そこではバンドラーとフランク・ピューセリックがゲシュタルト療法のワークを行っており、創始者であるフリッツ・パールズよりもさらに短時間でセラピーの劇的な効果を出していることを目の当たりにし、グリンダーは好奇心をそそられ、そのグループワークに加わることにしました。
バンドラーは、自分が行っているゲシュタルト療法のグループワークや個人セッションを、どのようにうまく進めているのか、また、どのやり方が効果的なのか、それらのことについてまだ正確に知ることができなかったのです。実際に、ある技を持っているということと、それをどのようにうまく使っているかを明瞭に知ることとは、大きな違いがあります。
そこで、グリンダーとバンドラーは、ひとつの試みを行うという約束を交わしました。それは、まず最初に、バンドラーがゲシュタルト療法のやり方をグリンダーに教えて、次に、グリンダーが、バンドラーがどのようにゲシュタルト療法を行って高い効果を出しているのかを分析して彼にフィードバックするというものです。こうしてグリンダーは、毎週一回、月曜日の午後に、このグループに参加して、バンドラーをモデリングしました。このとき、バンドラーは、特に重要だと思われるパターンを目配せしたり声の調子を変えたりしてグリンダーに知らせるようにしました。
グリンダーは、バンドラーが行っていることを観察し、素早く学び取り、明確に分析することに成功しました。そして、グループに参加した2ヶ月後には、そこで行われていることのパターンを抽出し、バンドラーと同じように実行することができるようになりました。グリンダーはその後、毎週一回、木曜日の午後に、「奇跡の再現」というテーマで、グループワークを開催するようになりました。月曜日の午後にバンドラーが行なったゲシュタルト療法のグループワークを、木曜日の午後にグリンダーが「奇跡の再現」という名称で同じ内容のものを行うというものです。この2つのグループワークから生み出される成果は成功していきました。
このように、バンドラーが直感的に行っていたワークを、グリンダーが分析し、パターン化した結果、NLPの最初の著書『魔法の構造』が誕生しました。セラピーの魔法使いが駆使しているスキルとして、第1巻では「言語パターン」が、第2巻では「非言語パターン」が分析的に記述されています。
Richard Bandler
John Grinder
John Grinder
Science and Behavior Books, Inc.
1975-06-01
Richard Bandler
John Grinder
John Grinder
Science and Behavior Books, Inc.
1975-08-01
上記2冊の本が、日本語版として、亀田ブックサービスより出版されました。
(2冊が1冊にまとめられています)
バンドラーは、次に、家族療法の母と呼ばれるヴァージニア・サティアが、家族療法家のためにカナダで開いていた1ヵ月という長期間のトレーニングセミナーに参加し、ビデオに録画をするという仕事を得ました。バンドラーはもともとヴァージニア・サティアと会ったことがあり、非常に親しい間柄でした。バンドラーは家族療法のセミナーが行なわれているあいだ、ずっと録音室に閉じこもり、外界との繋がりはセミナー会場に設置されたマイクだけでした。彼は2つに分割したイヤフォンを持っていて、片方の耳で録音レベルを調節しながら、もう一方の耳ではよくピンク・フロイドのテープを聞いていました。
このトレーニングセミナーの最後の週に、ヴァージニア・サティアは、模擬的にカウンセリングが必要な状況を設定して、自分がこのトレーニングセミナーで教えてきた内容を使ってどのように解決するかについてセミナーの参加者に質問をしました。それに対してほとんどの参加者たちは回答することができず、当惑したようすで時間が過ぎていました。そのときバンドラーは、録音室から大急ぎで駈け下りてきて、バージニア・サティアが教えてきた内容を使って、カウンセリングの中で提示された問題を見事に解決してみせました。それに対してヴァージニア・サティアは、「まさにその通り」と言いました。バンドラーは、ヴァージニア・サティアの治療のパターンを意識して学ぼうとはしていませんでしが、参加者の誰よりもよく知っているという奇妙な状況になっていました。バンドラーはなぜ自分がそのような状況になっているのかを自分で理解することはできませんでした。そこでグリンダーは、ヴァージニア・サティアが教えていたものを、バンドラーからモデリングして、分析して見せました。バンドラーとグリンダーの観察対象者のモデリングの能率はかなりのレベルまで向上しており、ヴァージニア・サティアのモデリングは、2ヶ月ではなく3週間で仕上げてしまいました。
1976年、グリンダーとバンドラーは、ヴァージニア・サティアと共著で、『家族とともに変化』を出版しました。この著書では、セラピストが、知識をもって対応することが必要なコミュニケーションのパターンが分析され、家族療法のための基本戦略が論じられています。
Richard Bandler/John Grinder/Virginia Satir
Science and Behavior Books, Inc.
1976-12
このようにして、グリンダーとバンドラーは、ゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールズと、家族療法の母と呼ばれるヴァージニア・サティアの、2人の卓越した心理療法家のモデリングに成功しました。フリッツ・パールズとヴァージニア・サティアはまったく異なる性格を持っており、同じ部屋で共に過ごすことができなかったという事実があるほどです。従って、2人のセラピーモデルは対照的であり、それだからこそ2人のセラピーをモデリングすることができたということが、グリンダーとバンドラーにとって補完的な効果をもたらしました。
そういった成果を知ったグレゴリー・ベイトソンは、門下生であるグリンダーとバンドラーに次のような提案をしました。
「アリゾナ州のフェニックスにミルトン・エリクソンという非常に奇抜な催眠療法家がいる。エリクソンを訪問して彼について研究してみなさい」
このベイトソンの助言を受けて、グリンダーとバンドラーは、アリゾナ州フェニックスにあるミルトン・エリクソンのクリニックを訪問し、彼について研究することにしました。ミルトン・エリクソンは、米国臨床催眠協会(ASCH)の創設者で、現在もっとも広く認知され、臨床的にも多くの成功を修めた精神科医です。グリンダーとバンドラーは、ミルトン・エリクソンが使っている言葉と行動のパターンを観察し、直感的なモデリングと緻密な分析を行い、彼の治療プロセスを実用的なモデルとして体系化させるため、2〜3日ほどで文章化して、2冊の本として出版しました。
上記2冊の本が、日本語版として、春秋社より出版されました。
このようにして、グリンダーとバンドラーは、ゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールズと、家族療法の母と呼ばれるヴァージニア・サティアの、2人の卓越した心理療法家のモデリングに成功しました。フリッツ・パールズとヴァージニア・サティアはまったく異なる性格を持っており、同じ部屋で共に過ごすことができなかったという事実があるほどです。従って、2人のセラピーモデルは対照的であり、それだからこそ2人のセラピーをモデリングすることができたということが、グリンダーとバンドラーにとって補完的な効果をもたらしました。
そういった成果を知ったグレゴリー・ベイトソンは、門下生であるグリンダーとバンドラーに次のような提案をしました。
「アリゾナ州のフェニックスにミルトン・エリクソンという非常に奇抜な催眠療法家がいる。エリクソンを訪問して彼について研究してみなさい」
このベイトソンの助言を受けて、グリンダーとバンドラーは、アリゾナ州フェニックスにあるミルトン・エリクソンのクリニックを訪問し、彼について研究することにしました。ミルトン・エリクソンは、米国臨床催眠協会(ASCH)の創設者で、現在もっとも広く認知され、臨床的にも多くの成功を修めた精神科医です。グリンダーとバンドラーは、ミルトン・エリクソンが使っている言葉と行動のパターンを観察し、直感的なモデリングと緻密な分析を行い、彼の治療プロセスを実用的なモデルとして体系化させるため、2〜3日ほどで文章化して、2冊の本として出版しました。
John Grinder
Richard Bandler
Richard Bandler
Meta Publications Inc.
1996-07-01
John Grinder
Richard Bandler
Richard Bandler
Meta Publications Inc.
1997-06-01
上記2冊の本が、日本語版として、春秋社より出版されました。
2人の卓越した心理療法家のモデリングに成功したグリンダーとバンドラーは、その後、カリフォルニアで、医師やセラピストの手に負えないような重度のクライアントをセラピーする仕事を始めました。その際、グリンダーとバンドラーは、「あらゆる方法がうまくいかず、最後の最後の手段として、私たちのところに訪ねてきてください」という条件を提示していました。この条件は、ミルトン・エリクソンがクライアントの家族に提示していた条件と同じでした。ある意味、この条件というのは、クライアント側の「絶望的コミットメント」がなければ奇跡的治療はありえないということでもありました。
グリンダーとバンドラーは、NLPが誕生するきっかけとなる数冊の著書を出版したあと、一連のワークショップの開催を始めました。そして、これらの一連のワークショップの内容は、録音テープをもとに、後日、転記編集されて、次のような著書で紹介されています。
ーFrogs into Princes, Richard Bandler and John Grinder, 1979
邦訳『王子様になったカエル』
ーTrance-Formations: Neuro-Linguistic Programming and the Structuer of Hypnosis, Richard Bandler and John Grinder, 1981.
邦訳『あなたをかえる神経言語プログラミング』
ーReframing, Richard Bandler and John Grinder, 1981
ーFrogs into Princes, Richard Bandler and John Grinder, 1979
邦訳『王子様になったカエル』
ーTrance-Formations: Neuro-Linguistic Programming and the Structuer of Hypnosis, Richard Bandler and John Grinder, 1981.
邦訳『あなたをかえる神経言語プログラミング』
Richard Bandler
John Grinder
John Grinder
Real People Press
1979-06-01
Richard Bandler
John Grinder
John Grinder
Real People Press
1981-07-01
ーReframing, Richard Bandler and John Grinder, 1981
邦訳『リフレーミング』
グリンダーとバンドラーが共同で行っていた一連のワークショップでは、強いトラウマを抱えた人々が数分でそれを克服できるような劇的なセラピーを達成していたため、NLPの存在が口コミで広がっていきました。その後、NLPは米国全土に広まり、英国をはじめとする西洋の国々、そしてアジア圏にも広まっていきました。
1980年、NLP共同創始者ジョン・グリンダーとリチャード・バンドラー、そして、NLP共同開発者ロバート・ディルツとジュディス・ディロージャの4人は、『NLP』という本を共著で出版しました。「NLP」という名称が初めて登場したのがこの著書です。これらの流れから、4人で編纂したこの著作によって「NLP」というものが完成されたと思われます。
また、1980年は、NLPの入門書『Magic of NLP』の初版が出版された年でもあり、NLPが心理療法の代替学派のひとつから、さらに適応性のある一般的なコミュニケーション心理学の方法論へと変容したという歴史的事実とも呼応しています。
Richard Bandler
John Grinder
John Grinder
Real People Press
1981-06-01
グリンダーとバンドラーが共同で行っていた一連のワークショップでは、強いトラウマを抱えた人々が数分でそれを克服できるような劇的なセラピーを達成していたため、NLPの存在が口コミで広がっていきました。その後、NLPは米国全土に広まり、英国をはじめとする西洋の国々、そしてアジア圏にも広まっていきました。
1980年、NLP共同創始者ジョン・グリンダーとリチャード・バンドラー、そして、NLP共同開発者ロバート・ディルツとジュディス・ディロージャの4人は、『NLP』という本を共著で出版しました。「NLP」という名称が初めて登場したのがこの著書です。これらの流れから、4人で編纂したこの著作によって「NLP」というものが完成されたと思われます。
John Grinder
Richard Bandler
Judith Delozier
Robert Dilts
Richard Bandler
Judith Delozier
Robert Dilts
Meta Publications
1980-06-01
また、1980年は、NLPの入門書『Magic of NLP』の初版が出版された年でもあり、NLPが心理療法の代替学派のひとつから、さらに適応性のある一般的なコミュニケーション心理学の方法論へと変容したという歴史的事実とも呼応しています。
上記の本が、日本語版として、株式会社メディアート出版より出版されました。
同年7月4日、グリンダーとバンドラーの師グレゴリー・ベイトソンがこの世を去り、それと同時期に、グリンダーとバンドラーのパートナーシップが解消されました。そこで、続編となる『NLP』(第2巻)の編集と出版も中止となりました。
ロバート・ディルツとジュディス・リロージャは、未完成のプロジェクトを完成させるため、NLP事典の執筆に着手しました。そして、『体系的NLPとNLP新コーディングの百科事典』(全2巻)が完成し、2000年にNLPユニバーシティから出版されました。この事典はA4サイズで各巻800ページ、合計1600ページの大書となっています。
ーEncyclopedia of Systemic Neuro-Linguistic Programming and NLP New Cording, Dilts, R., & Delozier, J., 2000
「1970年代、私とバンドラーが行ったさまざまな帰納法的ワーク(例えば、卓越した心理療法家がセラピーを行っている場面のVTRを何度も繰り返し見ることによって膨大な生のデータからその卓越した心理療法家の言葉や行動のパターンを見出すワーク)の結果、「NLP」というひとつの新しい体系を生み出しました。そして現在、NLPは、ビジネス、教育、司法、セラピー、プレゼンテーション、スポーツ、芸術など、さまざまな分野で使われています。そして今後も、さらに広い分野に浸透していくことでしょう。しかし私の見るところ、1970年代に私とバンドラーがNLPを創始した後は、NLPのさまざまな分野への『適用』というものだけが存在しているようで、私とバンドラーが行ったような帰納法的ワーク、すなわち『新しいモデルを創造する』というNLP実践者が現れない限り、NLPはこれから徐々に衰退していき、やがて消滅すると思います」
NLP共同創始者ジョン・グリンダー博士認定校
ニューコードNLPスクール
記事更新日:2022/04/02