ERICKSON BIOGRAPHY by Milton H. Erickson Foundation
1901年(00歳)1901年12月5日
ーアメリカ合衆国の西部に位置するネバダ州オーラムの銀鉱キャンプ場で誕生。父親はオーラムの銀鉱労働者として働いていた。
1905年(03歳)
ー父親が農業を始めるため、家族全員でウィスコンシン州に移住する。
1906年(04歳)
ー言葉を話すようになる。
1908年(06歳)
ー「m」と「3」の違いがわかるようになる。
ーいつも自然なトランス状態に入っていた。
1910年(08歳)
ー父親が働く農場で乳搾りを覚える。
1917年(15歳)
ー自宅から4〜5マイル離れた高校に歩いて通学する。在校生は少なく、エリクソンの同級生は6人で男性学生は2人だけであった。
1918年(16歳)
ー辞書の使い方がわかるようになる。
ー英単語 'government' の発音ができるようになる。
ーいつも自然なトランス状態に入っていた。
若い頃のミルトン・エリクソン
1919年(17歳)
ー高校を卒業する。
ーポリオ(急性外白髄炎・小児麻痺)を患い、全身の麻痺にみまわれる。
全身麻痺という極めて重篤な身体の状態に陥ったエリクソンは、自分の身体をほとんど動かせないことから、日々の退屈しのぎとして家族の行動をつぶさに観察していました。エリクソンは、家族の一員であった赤ちゃんが手足を少しずつ動かし始めた頃にいろいろな動きを習得していくプロセスを細かくモデリングしながら、自分の身体の機能を回復させていくことに成功しました。この経験から、エリクソンは非言語コミュニケーション・レベルにおける知覚能力が極めて敏感になり、これが(反伝統的な催眠である)Ericksorian Hypnosis(エリクソン催眠)の創始につながりました。
エリクソンは、自分の身体がほとんど動かせなかった頃、自分のまわりにいる人たちを観察しながら、言葉のダブルテイク(double takes: 一つの言葉が二重の解釈を持ちうること)やトリプルテイク(triple take: 一つの言葉が三重の解釈を持ちうること)、言葉の命令的側面(例えば、「窓が開いてますね」が「窓を閉めてください」という命令を含意しうること)などを発見しました。また、赤ちゃんをモデリングすることで身体的な発達プロセスを習得したり、人の首筋を見て脈拍数を知るなど鋭い観察力を獲得したりしました。さらに、エリクソンが患った失音楽症は、コミュニケーションをとる相手の呼吸や抑揚に注意を向けることを可能にし、後に彼が催眠を独習するきっかけとなりました。
1920年(18歳)
ーウィスコンシン大学に進学。
ー大学に通いながらピーナッツ缶詰工場で働く。
1921年(19歳)
ーカヌー旅行に行く。
1922年(20歳)大学2年生
ー自分が書いた論説を新聞に投稿しはじめる。
ー自己催眠をはじめる。
ー同大学の教員で心理学者のクラーク・ハルと出会い、催眠に対して本格的な興味を持つ。
▶クラーク・ハル(Wikipedia)
1923年(21歳)大学3年生
ー同大学の医学部に進学し、本格的な催眠の研究を始める。
ー実験のために約100人に対して催眠を行う。
1925年(23歳)
ー結婚する。
ーさまざまな環境の人々を対象に心理検査を実施する。
※さまざまな環境の人々とは、ウィスコンシン州の囚人やなんらかの犯罪を犯した精神障害者、ミルウォーキーの矯正施設の入所者、少年鑑別所の少年、孤児院(日本でいう児童養護施設)の子供など。
1928年(26歳)
ーウィスコンシン大学卒業。医学博士および心理学修士を取得し、精神科の医師となる。
ーコロラド精神医学病院で精神科のインターン(医学研修生)となる。
ー約1200人の子どもの病歴を分析し、児童精神医学のリサーチを行う。
1929年(27歳)
ーロードアイランド州のハウアードにある精神疾患のための州立病院に勤務する。
1930年(28歳)
ーマサチューセッツ州にあるウースタ―州立病院に勤務する。
ーこの4年をかけて「生活史」の徹底的な研究を行う。
ー著書『実験的催眠による有害的効果の可能性』を出版。
ー催眠に対する暗く恐ろしいイメージを変え、ポジティブで安全な手法であることを示した。
ーこの病院に勤務している間に、エドワード・サピーアと知り合う。
※サピーアに、エリクソンの話すリズムはアフリカ中部のある部族のリズムと似ていると指摘される。
▶エドワード・サピア(Wikipedia)
1934年(32歳)
ーミシガン州エロイーズのウエイン郡総合病院に勤務する。
ー精神医学リサーチ部門のディレクターになる。
ー離婚をして3人の子どもを引き取る。
1936年(34歳)
ーエリザベスと再婚する。(2度目の結婚)
1939年(37歳)
ー精神医学のリサーチ部門と訓練部門のディレクターになる。
ーウェイン大学精神科の准教授になる。ここでは心理学も教える。
ーミシガン大学で臨床心理学を教える。
ーアブラハム・マズローの紹介で、マーガレット・ミードやグレゴリー・ベイトソンから協力を求められる。
ーマーガレット・ミードは「バリ島のダンスにおけるトランス状態の研究」についてエリクソンの意見を求める。
1940年(38歳)
ー38歳から55歳まで “Disease of the Nervous system” の Associated Editor を務める。
1941年(39歳)
ー第二次世界大戦中、アメリカ政府の要請を受け、「日本人の性格特徴とナチズムの宣伝効果」について分析する仕事を行う。
ー戦争の選抜徴兵局で精神科医として働く。
ー積極的に催眠の有効性を訴え、各方面に取り入れられる。
1947年(45歳)
ー重篤な血清病を患う。
1948年(46歳)
ーアリゾナ州フェニックスに引っ越す
1949年(47歳)
ーアリゾナ州フェニックスのサイプレスで精神科のクリニックを開業する。
★
1950年(48歳)
−アルダス・ハクスレーと共同研究を行う。リン・クーパーと時間歪曲に関する共同研究を行う。
−ベイトソン、ヘイリー、ウィークランドから助言を求められる。
−各地から招かれて、セミナー、ワークショップを行う。
1953年(51歳)
−17歳の時に患ったポリオが悪化する身体の麻痺が再発する。
−右手が動かなくなり、左手で書かなければならなくなる。
この頃、.ヘイリーから「エリクソン先生の偉業は、自身の身体障害の経験から得られたものですね」と言われたことに対して、エリクソンは、「障害?・・・財産?人間は、障害を財産にする才能を持っています!」と答えている。
1957年(55歳)
−アメリカ臨床催眠学会を創設して、初代会長になる。
1958年(56〜68歳)
−アメリカ臨床催眠学会の雑誌編集主幹となる。
1967年(67歳)
−この頃より車椅子中心の生活となる。
1969年(65歳)
−体調の悪化により、旅行を断念する。
1970年(68歳)
−フェニックスのヘイワードに引っ越す。
1972年(70歳)
−アーネスト・ロッシーが弟子入りする。
1973年(71歳)
−ジェフリー・ザイクが弟子入りする。
1974年(72歳)
−診療から退く。セミナーは続ける。
−NLPの創始者のグリンダーとバンドラーがエリクソンを訪問し、モデリングを行う。
▶ミルトンモデルが誕生した経緯(1)
▶ミルトンモデルが誕生した経緯(2)
1979年(77歳)
−ミルトン・H・エリクソン財団が設立される。
NLP創始者ジョン・グリンダー博士認定校
ニューコードNLPスクール
記事更新日:2020/06/24